生活のヒント 負の遺産の時代

 
〜根本を感じて前に進む@〜
「大国」の限界を知る。


編集部
 
   
 まさか・・・・・という歴史的な現実が起こってしまいました。
 アメリカ合衆国の大統領選挙で、あのトランプ氏が選出されたのです。筆者は半世紀と+アルファ生きてきましたが、今回ほど驚愕したことはありません。それは、2011.3.10の大天災であった「東日本大震災」以上の衝撃でありました。かつて、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦の幕引きをゴルバチョフという偉人が立ち回っておりました。この当時、日本はアメリカに迫る経済成長の真っ只中で、バブル時代のど真ん中のある意味「この世の春」でありましたが、その数年後、私たちには過酷な時代が待っておりました。あのベルリンの壁が破壊されたとき、ソ連建国以来の社会主義諸国は大変動するのですが、「選挙」によって、超大国の頂点に非現実的な人物が単独で納まってしまうなんてことがありえるのか・・・・・と、驚愕するばかりであります。

 バブル崩壊のときは、日銀総裁がガチガチの頑固一徹-無形文化財みたいな人で、タイミングよく決断していれば、打撲ですませられたかもしれないダメージを、意味不明のプライドによって国家の致命的な痛手まで引っ張ってしまい、20年もその後の時代に悔いの残る停滞を生み出してしまいましたけれど、今回の超大国の「大統領権限」は、そんな程度ではないわけです。平和ボケできるほどの安全が担保されているかのような生活を当たり前にやっていたのだ、いや実はそれはたまたま、何十年もただ保っていただけだったのだ・・・・という現実が、いきなり目の前にやってきたのであります。人とは不思議なもので、バブルが崩壊していった過程でも、すぐに持ち直す・・・・と信じていた人は少なくなかったし、東京でバブルがはじけても、西多摩や名古屋などは崩壊まで数年遅れています。本当の情報を知らなければ、最後の最期まで日本が戦争に負けていることすら気がつかないのが一般庶民です。末期には台湾で戦果を挙げた・・・・という嘘を大本営まで信じてしまい、フィリピンでは間違った戦術を進めて多くの命が犠牲になっています。嘘も信じれば真実になる・・・のではなくて、自分たちの上に、なにか万能の神のような存在がいるはずだ・・・・・と、世相によって、脳が勘違いさせるのでありましょう。

 今回のトランプ選出のショックについて、マスメディアは第一に経済のことと、軍事についての不安を議論しておりますけれど、筆者はもう少し別の観点で、今回の事態について鳥肌が立つ心境になっています。

 それは、トランプさんを選んだ人たちの「生活状況やココロの中」についてであります。

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 アメリカ合衆国についての好悪は別にいたします。

 筆者自身、USAの好きなところと嫌いなところがあります。ただし、一般庶民の感覚として、目下横田の軍事基地にあのオスプレイが配備されており、それが私の勤務する立川の職場から飛来する風景をしばしば眺めていても、そのことで大きな感情は起こりませんし、日々接することのある在日米軍の関係の方たちとも、明るく挨拶する関係ではあっても、嫌悪感は皆無であり、また、ある種の友情すら感じます。

 フツーに考えて、外国の軍隊が自国に滞在している・・・なんてことはとても不思議なことです。
 これは、自分たちが単純に「慣れしてしまった」だけで、アメリカの軍人さんたちもそうなんでしょう。

 目下、仮想敵国状態の中国については、日々中国人観光客のやかましさに国内外問わずイラつくこともあるけれど、中国人個人個人が嫌い・・・ということはなく単に「文化」や「教育」の違いがあるだけで、彼らを敵にするのはどうか・・・・・と、いつも感じるし、逆に軍事パートナーでもあるアメリカが全て頼もしくて都合がいい・・・なんていう感情も持ち合わせません。仮に敵国があるとしても、まずは「己を知る」ところから戦いは可能であるわけで、私たちは、本当に己(自分や祖国)を知って、理解できているのでしょうか・・・・と、改めて慄然としました。


       


 生きてきた「生の時代」をふりかえって、しみじみ思いました。

 私たちの世代は、自由に外国に行き来でき、自由に情報を得て、そして、自由にいろいろな国の人たちと付き合うチャンスがありました。この時代に生きた大いなるメリットでありました。井の中でカワズすることも可能でしたが、人類の歴史以来、こんなに世界中をカンタンに見聞できる時代は初めてであり、それを享受できたのであります。

 今もこれからも(おそらく死ぬまで)筆者自身は、民族主義的に、また、排他的に他国人を見下したりこびへつらったりする意思もつもりも心ないので、自由や民主主義や、個人の感性というものが自然にふれあえる素晴らしさを、わざわざ島国的な偏狭心になって対決したり、細かいことでクドクド争う・・・意味がまったく分からないから、そんな感覚は持つこともないし、心には国境はないでしょう。

 これは、なぜかな・・・と思いますが、やはり、根本は、第2次大戦後の民主主義と教育の中で生きてきたからでありましょう。そして、外国で自由に人々と触れて歩き、付き合うことが出来、みんな「同じ人間なんだ」という感覚を得られたことが、「偏見や優越感を持て」・・・といわれても、できない感覚なのであります。目で見て、体で経験してしまったので、漠然とした日本人の優越論に組する気持ちは起こりません。

 これは、日本人としての誇りを持っている・・・ことの感覚とブレテはおりません。国粋主義になるのが愛国心ではなくて、世界や社会を知ることで、祖国のよさも本当に実感できる。そして、世界という「世」は、すでにつながって生計が成り立っています。


 続く

                            記載 2016年11月14日

  
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